山口のひとりごと。。

「ひとりごと」ですので、「そんな見方もあるんだな」くらいで流してもらえれば。

学校は、できないことを晒しあげられる場所

自分は体育が苦手で、

体育の授業の度に「できない自分」を

晒さなきゃいけません。


ハンドボール投げは20m

行くか行かないかくらい。


50m走も調子が良いときなら

ギリギリ7秒台。


球技もできなければ

体操系のこともできないので、

体育の授業で自分ができることって

ほぼ無いんですよね。




で、学校生活をする上で

体育って絶対避けては通れなくて、

学生であるがゆえに「運動できない自分」を

周りにさらけ出さなくちゃいけない、と。


もちろん、体育をやることで

体力を養ったり協調性を養ったりっていう

教育的な意味はわかるんですが、

でも出来ない自分をさらけ出すことが

どれだけしんどいことか、という話です。


なんなら、チーム戦とかになると

自分がチームにいることで

迷惑をかける、という。


5人対5人でサッカーとかバスケとか

やったとしても、自分が下手なせいで

実質5人対4人になっちゃう、という。


そこで迷惑をかけるのも辛いし、

気を使われるのも辛いしっていう。


だから、自分は大学生になったときに

何が嬉しかったかって、

体育が無くなることなんですよ。笑


自分、中学・高校・大学で言えば

大学時代が1番生き生きしてたんですが、

その理由の1つが体育がないこと。


そのくらい、体育って嫌なものでした。




これが例えば、自分の場合は

運動ができないから体育が嫌だったんですが、

勉強できない人だと国語や数学が

嫌なのかもしれない。


それは「面倒くさいからやりたくない」

とかのレベルではなくて、本当に

めちゃくちゃ嫌だっていう。


勉強についていけない自分と

向き合わなきゃいけないっていうことと、

できない自分をさらけ出さなきゃ

いけないっていうこと。


それが確実に精神的な負担になる、と。




学校の勉強に意味がないとは

言わないですけど、

そういう精神的な負担っていうのも

絶対に考慮しなくちゃいけないなと

思ってるんですよね。


勉強の価値と、精神的な負担の価値は

同じ価値として考えて欲しい、というか。


勉強が大切だからって精神面のことを

全く無視して「勉強しなさい!」って言うのも

違うし、その逆も然り、という。