山口のひとりごと。。

「ひとりごと」ですので、「そんな見方もあるんだな」くらいで流してもらえれば。

カープレジェンドについて知ろう【安仁屋宗八】

 

安仁屋さんといえば、

RCCのちょっとお茶目な解説者の人、という

イメージの人が多いんじゃないですかね。

 

毎年、カープの投手陣に対して

ものすごく期待をしており、

「あの投手は10勝するはず」

「この投手も活躍するだろう」

「コイツは20勝くらいするんじゃないか」

と大胆な勝ち星予想をして、

計算したら勝利数が試合数より多く

なってしまう。

 

いわゆる「安仁屋算」というやつですが、

これは毎年恒例となっていますよね。笑

 

 

安仁屋さんは現役時代、

どういう投手だったか。

 

調べてみると、安仁屋さんは

沖縄出身として初のプロ野球選手だと

いうことです。

 

安仁屋さんがプロ入りした当時は、

沖縄はまだ、アメリカの統治下。

 

そこから日本のプロ野球に入ったと

いうことで、沖縄のスターと

なったわけですね。

 

 

現在79歳ということで、

戦争を経験している世代の方です。

 

大分県疎開したり、

空襲に合ったりと、過酷な幼少期を

過ごしており、終戦後の小学校時代に

遊びとして野球を始める。

 

本格的に野球部に入って野球を

始めたのは、中学校からだそうです。

 

しかし、それからも

「絶対にプロに行ってやる!」とか

「甲子園に行ってやる!」という

ことではなく、楽しむ気持ちで

野球を続けていった。

 

そして高校・社会人と経て、

カープに入団します。

 

 

右のサイドスローで、

内角に食い込むシュートが武器だった

ようです。

 

プロ入り最初の年は主に中継ぎでしたが、

2年目から徐々に先発の機会が増え、

5年目の1968年に23勝をマーク。

 

そこから3年連続で2桁勝利を

達成しています。

 

 

ところが、今でも飲兵衛として知られる

安仁屋さんですが、若い頃も

お酒の飲み方が大胆だったらしく、

痛風で足が腫れたり、

寮の門限を度々破って退寮になったりと、

結構ハチャメチャなことを

していたそう。

 

そして、1974年のこと。

 

春のキャンプの時期に、

打撃コーチのルーツに

アンダースローに変えろ」と言われ、

「絶対にやらん」と拒否したことで

ルーツとの関係が悪化。

 

森永監督からは「ルーツは打撃コーチだから

関係ない。言うことは聞かなくていい」と

いうような感じで言われたそうですが、

その年限りで森永監督が退任すると、

ルーツが監督に就任するんですね。

 

その途端に安仁屋さんは、

阪神へトレード放出されるのです。

 

 

 

1970年を最後に、2桁勝利から4年間

遠ざかっていた安仁屋さん。

 

しかし、このトレード放出という仕打ちに

「絶対に見返してやる」と燃え、

全て中継ぎで66試合に登板し、

140.2イニングスで防御率1.91をマーク。

 

カムバック賞を受賞する活躍を

見せました。

 

阪神の名捕手・田淵幸一との相性も

抜群に良かったようですね。

 

安仁屋さんがシュートピッチャーとの

イメージを利用して、裏をかいた

スライダーで打者を抑えていく。

 

そういう配球が見事にマッチしました。

 

 

阪神では中継ぎとして活躍した

安仁屋さんですが、阪神に行って

5年目に、今度は阪神のブレイザー監督と

対立する。

 

ブレイザーの指示を安仁屋さんが

受け入れなかったことで二軍に落とされ、

前年は39試合登板していたのが、

ブレイザーが監督になるとわずか

12試合しか起用されませんでした。

 

 

そのオフ、阪神から現役を引退して

二軍コーチにならないか?という

オファーを受けますが、

カープの古葉監督から「現役をやる気なら

帰ってきてもいい」と連絡を受け、

5年ぶりにカープに復帰します。

 

こうして最後はカープで現役生活を

終えることになるのです。

 

 

カープ復帰後の安仁屋さんは、

お酒が原因で体調を崩すなどして、

2年間でわずか3登板と、

戦力にはなれませんでした。

 

しかし、それでも優勝の胴上げに

加わるなど、周りの人たちからは

愛される存在だった。

 

安仁屋さんの人柄というのは

本当に、周りの人を惹き付けるんだなと

思いますよね。

 

 

現役引退後は、カープでコーチ・

二軍監督などを務めました。

 

二軍監督時代には、ルーキーだった

黒田博樹の育成に携わりました。

 

教育リーグで1イニング10失点を

喫した黒田ですが、

それでも安仁屋さんはイニング途中で

交代させるということはしなかった。

 

ベンチの顔色をうかがいながら投げる

黒田に対し、安仁屋さんは

知らん顔で、なんとかイニングの

最後まで投げさせた。

 

この試合は後に、「あの試合があったから

黒田は成長した」という、

ファンの語り草にもなっています。

 

 

2006年からは解説者・評論家に

専念しますが、2016年、

緒方監督の要請で、春のキャンプで

臨時コーチを務めましたよね。

 

この年にルーキーとして入った

岡田明丈なんかは、

安仁屋さんの指導によって

一軍で活躍していきました。

 

解説を聞いていても、

安仁屋さんって言ったことが

ズバズバと当たるんですよね。

 

すごい人だなぁといつも思いながら

解説を聞いています。

 

今でもお酒大好きな安仁屋さんですが、

体に気をつけて、

長生きしてもらいたいですね。