先週、NHKでMrs. GREEN APPLE の
特集がやっていて、
ミセスの3人と内村光良さんが
トークをしていたんですよね。
その中で「へぇ〜、凄い」と思った
やり取りがありました。
内村
ケセラセラの、
「生まれ変わるなら?また私だね」
という歌詞。あそこが、
「自分はそうは思わないよ」っていう人も
いるかもしれないけど、
最後の最後には自分をそう思って欲しいな、
というね。
大森
その通りですね。実はあそこだけ
歌詞を書き直したんですよ
内村
あ、そうなの!?
大森
最初は「生まれ変われない また私だけ」
だったんですよ。
内村
なるほど!
大森
でも、いや、もっと自分も
願いを込めて歌いたいし、
前向きな気持ちで歌いたいと思って
書き直したんです。だから、
(ケセラセラは)すごい自己愛に
満ちた曲だと一見、思われるんですけど、
“そうでありたいけどそうなれない自分”が
いる、そんな世の中だからこそ、
希う(こいねがう)ように歌えるといいな、
と思いながら作りました
つまり、「生まれ変われない また私だけ」
と思っている人に対して、
「生まれ変わるなら また私だね」と
思って欲しい、という願いが
込められているんですよね。
「ケセラセラ」って、
日本語で言えば「なるとかなるよ」とか、
沖縄弁で言えば「なんくるないさ」
に近い言葉だと思うんですけど、
この「ケセラセラ」という言葉の印象が
「生まれ変われない また私だけ」と
「生まれ変わるなら また私だね」では
大きく違うような気がします。
前者だと、最初に「ケセラセラ」と言って
「限界?上等 やってやろうか」とか
言ってますけど、その言葉たちが
どこか他人事のような印象に
なってしまう。
「どうせ私は」みたいな、
卑屈な思いを感じてしまいますよね。
また、最後の「なるようになるのさ
ケセラセラ」という歌詞にも
“投げやり”とか“ヤケクソ”みたいな
印象がついてしまいます。
でも、後者なら、それらが全部
前向きに、しかも自分事としての詞になる。
そっちの方が、
「きっといつかそう思える日がくるから
一緒に頑張ろうよ」という
メッセージを感じることができて、
明るい歌になるなぁ、と個人的には
思います。
もちろん、元々の歌詞の方でも
それはそれで複雑な人間心理に
理解を示すことはできているんですけど、
でも「願いを込めて歌えるように」と
いうことで歌詞を変えた。
その辺りの感覚が、
やっぱり大森元貴って凄いなぁと
思うところですよね。