2019年に母娘を車ではねて死亡させ、
禁固刑で服役中だった飯塚幸三受刑者が、
老衰により刑務所で亡くなりました。
この事故はすごく痛ましい事故で、
心に残っています。
妻子を亡くしたご遺族の気持ちを思うと、
本当に胸が痛みます。
ただ、この飯塚という人を
責めればいいというものではなく、
なぜこの事故が起こったのか、を
考えることが大切だと思います。
ちょうどこの事故が起きた
すぐ後くらいだったと思いますが、
自分がある人と会話をしていて、
高齢者ドライバー問題の話に
なったことがありました。
自分が「被害者はもちろん、
高齢者ドライバー本人も、今まで一生懸命
生きてきたのに事故の責任を負うことに
なってしまうという点では可哀想」
という旨のことを言うと、
「可哀想じゃねぇよ」と返されたのを
覚えています。
「可哀想」という言い方が
正しいのかどうかよくわからないけど、
それでも自分はやっぱり
「可哀想」という感情を少しだけ、
感じてしまいます。
高齢者にだって、車を運転しないと
いけない事情というものがあるでしょう。
例えば自分の祖母は
73歳くらいで車を手放しましたが、
それ以降は、買い物や病院など、
バスに乗らないと行けなくなりました。
行き先によっては
バスを乗り継がないといけない。
そこには当然、大きな負担が伴うし、
車を運転した方が楽だろうと思います。
今回、ご遺族の松永拓也さんは
「妻と娘は、本当に無念だったと思います。
ただ、飯塚さんにとっても、大きな責任を
背負いながら刑務所で最期を迎えたことは、
とても無念だったことでしょう」と
コメントしています。
自分は、妻子を失った松永さんが、
妻子の命を奪った飯塚の気持ちを
想えるということを、本当に尊敬します。
それと同時に、あの時自分が思った
「可哀想」という感情が、
あながち間違いでもないんだな、と
思いました。
やっぱり、一生懸命生きてきた人が
こういう事故を起こして、
死ぬまでずっと責任を負って
生きていくというのは「可哀想」です。
こういう事故を起こさないために
何ができるのか、を考えるべきです。
ライドシェアは
早く全面解禁すべきだろうし、
踏み間違い防止装置の精度を
より向上していくこともそう。
それから、高齢者が病院に行ったり
買い物に行ったり散歩したり…という、
あらゆることをできるだけ1つの場所で
行えるように、まちのデザインを
考えていく必要もあるんだろうと思います。
いろんな施設が分散していると、
交通機関での移動が負担になって
「やっぱり車が無いと生活できない」と
なってしまうので、そういう施設の
集積化を図るべきでしょう。
とにかく、こういう事故の起こらない社会が
実現することを願うばかりです。