山口のひとりごと。。

「ひとりごと」ですので、「そんな見方もあるんだな」くらいで流してもらえれば。

「なんで将来使わないことを勉強するの?」と思ってる人を少しだけ納得させます

国語って、人の気持ちや考え方を
読み取るっていうのが大切じゃないですか。

例えば物語だったら登場人物の心情とか
関係性が重要だし、評論文だったら
筆者の考え方を理解するのが重要。

そういうのをしっかり読み取れる人って
いうのが、国語が得意だと思います。



対して数学って、提示された情報から
論理的に考えて答えを導くっていう
作業じゃないですか。

問題文の情報とか表やグラフの情報、
公式などを正しく判断して使うことで、
答えにたどりつく。

道筋はどうであれ、答えにたどり着ければ良い。

それが数学です。




そのことと関係あるのかないのか、
文系には情を重視する人が多く、
理系には合理性を重視する人が
多いような気がします。

「あいつの気持ちも少しは考えてあげたら?」
という怒り方をする人は文系だし、
「あいつまた無駄なことやってるな。これは
こうした方が時短になるのに…」みたいに
人を見下してるのは理系。

何か決断に迫られた時、
文系は経験をもとに判断することが多く、
理系は理論をもとに判断することが多い。

なんとなく俺はそんな印象を持っています。

どうですか?共感していただけますか?笑




ただ、厳密に言うと、ここで言うところの
文系っていうのは「国語が得意な人」という
ニュアンスよりも、「数学が苦手な人」という
ニュアンスです。

数学が苦手だから、理論的に考えることが
できない。

だから、文系的に人の気持ちとかを重視した
考え方になりがちだということです。



ということは、ここで言う理系というのは
「国語が苦手な人」ということ。

人の気持ちを読み取ることができないから、
論理的で合理的な考え方になりがちだと
いうことです。




でも俺が思うに、どちらの考え方も
持っていた方が良いものなんです。

文系らしく人の考えを読み取る能力も、
理系らしく情報を駆使して結果重視で
考える能力も両方必要。

その両方の視点を持っている人は
正しい判断をできる確率が上がるし、
文系的な人の意見も理系的な人の意見も
理解してあげられますからね。




で、実感はないかもしれませんが、
学校でちゃんと国語を勉強していれば、
文系的な考え方はちゃんと鍛えられるし、
学校でちゃんと数学を勉強していれば、
数学的な考え方はちゃんと鍛えられます。

だから、国語も数学も学校で勉強しなければ
いけないのです。

確かに将来サイン・コサインとか使うこと
ないですけど、でも数学の問題を解くことで
実は数学的な考え方が鍛えられている。

それを鍛えるための課題として、
サイン・コサインをやらなければ
いけないということです。



それは社会とか理科とか、他の教科も同じ。

将来使わないことだとしても、
自分の視野を広げるという意味で、
役に立たない勉強は1つもないと
俺は信じています。